宗教と信仰~(自力と自立の違い)
- 2009.06.30 Tuesday
- 22:57
やっと脱皮した〜!
苦しかった・・・。
これでもかこれでもかと難が来るので
信心なんて効果がないと唱題も勤行もやめてしまっていた。
こうなりたいとお題目を唱えるというのは
いま自分は足りてないと認識してしまうから
そういう状況をずっと続けることになる気がして
瞑想をすることのほうが
委ねて受け入れるだけだから良さそうだと思っていた。
宇宙は損得ではないと言いながら
それでもしあわせになりたいと望まずにはいられず
でも、どう祈ってよいのかわからなかった。
信仰は持っていたいけど
宗教はもうたくさんです。
そういって拒絶してきたが
それに向き合うようにしてくれたのが
地域の婦人部の幹部でした。
一回だけ話を聞いてというので
これ以上最低なことはないくらい落ち込んでいたから
どこかで目が覚めないとこのままだという心の叫びもあり
この苦しみから解放されたいという
これもご本尊の愛だったのだろう。
魔だったらこうはいかない
とことん地獄のような苦しみなのだと思う。
それでも、このような試練こそが
実は、私を守ってくれている大きな力
ご本尊の「愛」だったとわかった今
やっと、荷が下りた。
(ご本尊というか、ご先祖様でも、主語霊でも大いなる力でもババ様でも良いのですが・・・)
やはり信じることが出来ないという不信ほど苦しいものはない
信じるものがいくつもあるということは
結局はどれも、信じていないということだから
少しでも何らかの疑いがある状態というのは
無駄なエネルギーを使いまくり
疲れまくりまくります。
こんだけがんばっているのにこういう目にあうのかと
またエゴにまみれていたのだけど
永遠の命の長さからすれば
ほんの一瞬の瞬きくらいの時間に過ぎないこの人生
こんな目にあうのかというのが
魔の仕業なのか、
試練なのかと敵のように思っていたときとは違い
私が信じるものはこれだとはっきりわかった今
「な〜んだ、私の目を覚まさせるための愛だったんだ」と思ったら
私がどんな選択をしようが
どれも不正解など無いのだと教えてもらっている気がする
私のことをちゃんとやっていたらよい・・・・。
自力と自立の違い・・・・
ここを履き違えてしまう。
自立するのにはやはり、人々の温かい愛があるからだ
それを自力でなんとかやらなきゃという呪縛に犯されると
宇宙からのエネルギーもメッセージも遮断してしまう。
この人のせいで傷ついたと勘違いしてしまうが
実は自分で自分を傷つけるようにエゴが仕組んでいるのだ・・・・。
本当にそれに気が付けない時期は
人を恨み、被害者意識になるから怖い。
人を許せないというそういう想念が
それを証明させるかのように働くから
ご本尊も、どれを実現させたらよいかわからないのだろう
ことごとく悪いことばかりが続く
願いがかなっていないと思ったときこそ
実は願いを叶えてもらっているときだ。
だからこそ、具体的にどうしたいのだと祈ることをしないと
負のエネルギーのほうが強いから
そちらばかりが現実となる
何にも負けない強い命になる
その命になるために磨く
そのためにはこの信心しかない。
仏界に縁するものは他にはない
占いで元気になることは出来ても
宿命を変える事までは出来ない
宿命が変わらなかったら、来世でも
さらに我が子までも
同じ苦しみをずっと味わう
信心をしたからこんな目にあうと
この仏法をうらんだが
信心をしなくてもこの宿命には苦しんだはず
大きく難を受けるはずが
小さく済んだのかも知れない
やっとご本尊に迎えるようになり
新聞に目を通せるようになり
迷いがふっきれた。
生まれ変わったように
今日は朝からずっと良いことばかり続く。
私のマイナスの想念が消えた途端
見える世界がガラッと変わった
苦しかった・・・。
これでもかこれでもかと難が来るので
信心なんて効果がないと唱題も勤行もやめてしまっていた。
こうなりたいとお題目を唱えるというのは
いま自分は足りてないと認識してしまうから
そういう状況をずっと続けることになる気がして
瞑想をすることのほうが
委ねて受け入れるだけだから良さそうだと思っていた。
宇宙は損得ではないと言いながら
それでもしあわせになりたいと望まずにはいられず
でも、どう祈ってよいのかわからなかった。
信仰は持っていたいけど
宗教はもうたくさんです。
そういって拒絶してきたが
それに向き合うようにしてくれたのが
地域の婦人部の幹部でした。
一回だけ話を聞いてというので
これ以上最低なことはないくらい落ち込んでいたから
どこかで目が覚めないとこのままだという心の叫びもあり
この苦しみから解放されたいという
これもご本尊の愛だったのだろう。
魔だったらこうはいかない
とことん地獄のような苦しみなのだと思う。
それでも、このような試練こそが
実は、私を守ってくれている大きな力
ご本尊の「愛」だったとわかった今
やっと、荷が下りた。
(ご本尊というか、ご先祖様でも、主語霊でも大いなる力でもババ様でも良いのですが・・・)
やはり信じることが出来ないという不信ほど苦しいものはない
信じるものがいくつもあるということは
結局はどれも、信じていないということだから
少しでも何らかの疑いがある状態というのは
無駄なエネルギーを使いまくり
疲れまくりまくります。
こんだけがんばっているのにこういう目にあうのかと
またエゴにまみれていたのだけど
永遠の命の長さからすれば
ほんの一瞬の瞬きくらいの時間に過ぎないこの人生
こんな目にあうのかというのが
魔の仕業なのか、
試練なのかと敵のように思っていたときとは違い
私が信じるものはこれだとはっきりわかった今
「な〜んだ、私の目を覚まさせるための愛だったんだ」と思ったら
私がどんな選択をしようが
どれも不正解など無いのだと教えてもらっている気がする
私のことをちゃんとやっていたらよい・・・・。
自力と自立の違い・・・・
ここを履き違えてしまう。
自立するのにはやはり、人々の温かい愛があるからだ
それを自力でなんとかやらなきゃという呪縛に犯されると
宇宙からのエネルギーもメッセージも遮断してしまう。
この人のせいで傷ついたと勘違いしてしまうが
実は自分で自分を傷つけるようにエゴが仕組んでいるのだ・・・・。
本当にそれに気が付けない時期は
人を恨み、被害者意識になるから怖い。
人を許せないというそういう想念が
それを証明させるかのように働くから
ご本尊も、どれを実現させたらよいかわからないのだろう
ことごとく悪いことばかりが続く
願いがかなっていないと思ったときこそ
実は願いを叶えてもらっているときだ。
だからこそ、具体的にどうしたいのだと祈ることをしないと
負のエネルギーのほうが強いから
そちらばかりが現実となる
何にも負けない強い命になる
その命になるために磨く
そのためにはこの信心しかない。
仏界に縁するものは他にはない
占いで元気になることは出来ても
宿命を変える事までは出来ない
宿命が変わらなかったら、来世でも
さらに我が子までも
同じ苦しみをずっと味わう
信心をしたからこんな目にあうと
この仏法をうらんだが
信心をしなくてもこの宿命には苦しんだはず
大きく難を受けるはずが
小さく済んだのかも知れない
やっとご本尊に迎えるようになり
新聞に目を通せるようになり
迷いがふっきれた。
生まれ変わったように
今日は朝からずっと良いことばかり続く。
私のマイナスの想念が消えた途端
見える世界がガラッと変わった